昭和2年~昭和9年

昭和 2  大毎主催全国選抜大会で和歌山中は優勝し、米国見学旅行に招待される。
 和歌山中の渡米に刺激され県予選出場校18。未曽有の盛況を呈した。然し有望視された海草中が和歌山商に敗れ、和歌山商もまた急造の和歌山中留守軍に敗退、和歌山中の伝統の偉大さに今更ながらファンを驚かした。

 本大会で実況放送開始。選手に傷害保険をかける。

昭和 3  春のリーグ戦で海草中が常勝和歌山中を仆した。県下チームで和歌山中を破ったのはこれが初である。
 11月御大典奉祝記念野球大会が和歌山中校庭で開催、小川投手を攻略して海草中が優勝した。
 本大会で出場選手数を14名に制限。
昭和 4  甲子園アルプス・スタンド完成。春の全国選抜大会に和歌山中、海草中出場。同一県より2校出場の新記録を作る。
 夏14回連続出場の和歌山中に代って新鋭海草中が甲子園に初出場し、優勝戦まで勝ち進んだが広島商に惜敗、初陣の大活躍に紀州健児の面目をほどこした。
 秋、和歌山日日新聞社主催、和歌山市内3校リーグ戦(新チームをもって)を開始した。
昭和 5  紀和予選出場校23(和歌山19、奈良4)に達し新記録を作る。和歌山中、和歌山商、海草中の技倆伯仲連日大観衆を集めた。
 この頃、市内の3校の後援会棧敷席を三塁側に設け応援合戦も盛んで夏の大会名物となった。
昭和 6  選抜大会歌がつくられ、出場校の校歌がレコードに吹きこまれ、背番号が採用された。甲子園にアルプス・スタンドに屋根ができる。
 野球ブーム到来、県予選も大盛況、和歌山商が苦節10年にして甲子園の夢が実を結んだ。
昭和 7  文部省野球統制令が施行され紀和大会は二次予選制で地方代表を決めることになった。
 9月第1回近畿2府4県大会予選始まる。
昭和 8  全国選抜大会10周年記念大会に、和歌山中、和歌山商、海草中、海南中4校揃って出場す。野球王国面目躍如。
 県予選で初優勝した海南中は翌日、郡山中に敗れ紀和大会野球史初の黒星。
昭和 9  海南中宿望を達成して初めて紀和代表となる。
長谷川投手は本大会対神戸一中戦にノーヒット・ノーランの記録を作る。