昭和20年~昭和29年

昭和20  第二次世界大戦のため、野球中絶。
昭和21  戦後虚脱状態の青少年に気力と自信を与えんと朝日新聞社が全国中等野球大会を再興した。復活第1回大会が西之宮で開催(甲子園を進駐軍接収の為)県予選で優勝した和歌山中が出場。
 食糧難、宿舎難、用具不足など悪条件が重った苦しい大会であった。
 入場式には海草中・畔取主将より全国大会優勝旗を改めて返還した。
昭和22  県予選は海草中、和歌山商校庭で開催。優勝呼び声高かった田辺中が敗退し、更に海南中が一度優勝旗を手にしながら無資格選手出場問題の為失格、第二位の海草中が紀和決勝に出場するという異変が持ち上った。
 本大会はなつかしい甲子園に返り行われたが依然、食料難で合宿の栄養補給に一苦労だった。
昭和23  学制改革は5月に実施され春は中学で、夏は高等学校となる。選抜は田辺中学2年連続出場。
 各地にトラブル発生のため、正しい高等学校野球発展を期して県野球協会直属の審判部を結成、その意義ある発表式を予選終了の日、竹中栄次郎宅において行った。
 学区制実施により、和歌山中、海草中、県和歌山商の選手が桐蔭高に合流、強チームを組織して甲子園では決勝に進出、小倉高1-0で惜敗、準優勝楯を受ける。
昭和24  選抜出場校、海南高、桐蔭高とアベック出場するも健斗むなし2回戦で姿消した。
 選手権和歌山大会決勝、海南高-桐蔭高戦が人気を呼び正門扉破られる始末、役員総出で整理に当り一時試合を延期する騒ぎであった。海南高優勝し、2度目の甲子園進出を果した。
 新宮高が準々決勝で海南高にコールドゲームに敗れ(12-1)、古角監督が後援会の一部から吊し上げを食う一幕があった。
昭和25  海南高昨年に続き選抜大会に出場す。
 紀和決勝で新宮高が郡山高を最終回打棄り、甲子園出場の夢を実現した。
 1月15日、田辺高がプロ選手を交えてOB戦、有料試合を行い野球憲章に触れ連盟より処分を受ける。
 選抜大会推薦方法に関して選考委員会を設けて順位を決定することになる。
昭和26  新宮高選抜大会に初名乗り、入場式直後の精神的負担のためか実力発揮できずに敗退した。
 県和歌山商高再建され初年度にして紀和代表となり、本大会では準決勝まで進出気を吐いた。
 例年選手権和歌山大会では朝日新聞本社に審判員派遣依頼したが、この年より県野球協会審判部のみに委嘱することに改められた。
 秋、田辺市営球場(現田辺商業高グランド)開きを記念し、秋季近畿高校野球大会を同地で開催。
昭和27  海南高選抜大会に出場、鹿児島商高・山田投手の軟投に屈した。
 待望の県営球場完成、春季近畿大会を同球場にて開催、その前日、全国高校野球連盟より長浜俊三氏を招き審判講習会を朝日新聞和歌山支局で開いた。
 選手権和歌山大会は県営球場(向ノ芝)に移し、この大会から全チーム入場式参加、朝日社機飛来、始球式用ボール投下、伝書鳩を放ち、ボール型プラカードを使用した。
 新宮高紀和決勝で郡山を1-0で敗り、2回目の甲子園出場。
昭和28  選手権和歌山大会直前(7月18日)大水害発生し交通機関寸断されたため、開催危ぶまれたが数日延期して開催する。被害の大きかった吉備高不参加。
 選手権和歌山大会で優勝した向陽高が紀和決勝で御所実業高に完敗した。紀和球史上2度目の敗北。春、夏淋しい年だった。
昭和29  春の選抜、新宮高2度目の出場。
 プラカード持ちの女生徒に真紅のバラ着用、選手にはシート背番号を使用した。
 新宮高、春・夏の出場達成、高校発足以来、海南高に次いで2度目。