昭和30年~昭和39年

昭和30  新宮高は選手権大会優勝候補、浪華商高、小倉高を連破し、前岡旋風を捲起したが準々決勝で中京商高のバント戦法にかき廻され惜敗した。
 新宮高、前岡投手、庵野三塁手は全日本選抜軍一員としてハワイ遠征に参加。
昭和31  選抜大会に中紀より日高高初出場、2回戦に進出したが日大三高の隠し球にチャンスを失い敗退す。この日高高が5月近畿大会県予選対耐久高戦でファンが騒ぎ試合中止となる事件惹起し6月末まで両校共謹慎処分を受ける。
 新宮高、紀和代表5回目、甲子園出場なる。大会後、前岡投手のプロ球団入りが原因となり古角監督引退。
昭和32  選抜大会に新宮高出場、選手交代が命取りとなり八幡商高に惜敗。
 藤城亘男県和歌山商業高部長、連盟理事長に就任。
 本年度より市立和歌山商業高、田辺商業高参加し23校となった。
 紀和決勝はそれぞれ2校ずつ出し合い行なうことに改められたが結局県和歌山商業高・伊都高の同志討ちとなり県和歌山商業高甲子園に駒を進めた。
 秋の近畿大会において海南高優勝、戦後初めての制覇である。
昭和33  浪華商業高選抜大会出場辞退により補欠校として和歌山工業高推薦され、海南高とともに2校出場する。
 第30回全国選抜大会を記念して10回以上出場校として和歌山中、海草中、海南中の3校が表彰された。
 本年度より御坊商工高は日高高より分離独立し初参加、主力選手が同校に行ったため日高高は同年のみ軟式に変る。
 第40回全国選手権大会は各都道府県より1校出場、47校によって争われたが本県代表・海南高活躍し準々決勝まで勝ち進んだ。
 選手権和歌山大会前、笠田高、山崎晃三選手が死球に仆れる事件発生したため健康管理の点から全試合にヘルメット使用を県高野連盟で申し合せた。
 なお本大会より選手の健康管理のため、延長18回で引分けという規定がつくられ、その適用第1号に徳島商業高-魚津高があった。
昭和34  全国大会は予選6地区と増し29地方代表をもって争覇することになる。
 選手権和歌山大会の準決勝から和歌山放送で実況中継が行なわれ球趣を高めた。初めて県代表となった南部高は紀和決勝において天理高に苦杯を喫す。有史以来3度目紀和代表を奈良に譲る結果となる。
昭和35  選抜大会に海南高出場、2回戦法政二高に1-0と惜敗。
 全国大会は南九州より鹿児島が独立し30地区代表となる。
 春の選抜出場校海南高に決勝で4-3で勝った新宮高、紀和決勝で御所工業高と対戦、勝利を寸前にして逆転され有史以来初めて2年連続紀和代表を奈良勢に奪われる結果となった。
 なお選手権和歌山大会開会式より全試合を和歌山放送で実況中継される。
昭和36  開校以来丸3年にして選抜大会に出場した御坊商工高は1回戦、北海高に延長の末9-8で惜敗。
 選手権大会に桐蔭高出場し海星高、秋田商高、岐阜商高を連破。決勝戦で浪華商高に1-0の僅少の差で長蛇を逸す。
昭和37  選抜大会に桐蔭高出場2回戦に進出したが岐阜高に敗る。
 この年、過去30数年のジンクス破れ春、夏連続優勝旗を作新学院高(北関東代表)が一手におさめる偉業を達成す。
 選手権和歌山大会での優勝校新宮高は、奈良の雄天理高に敗れる。有史以来5度目となる。秋季近畿地区大会出場の海南高3度目の優勝す。
 県高校野球連盟審判部発足す。
昭和38  選抜大会5年ぶりに海南高、南部高のアペック出場す。
 本年度より昭和27年以来休部だった高野山高復帰す。全国大会参加校も年毎に増え2,000校を超え2,107校となる。
 第45回全国選手権記念大会48校によって争われる。
 春、夏の連続出場の南部高、雌伏16年、安部弁雄部長の労苦実り、蕾堅き南部の梅開花する。
 春季近畿地区大会は昨年に続き海南高連続優勝の快挙。
 球児に親しまれてきた向ノ芝県営球場は移転のため本年度限りで閉鎖。
昭和39  選抜大会海南高2年連続、新興、市和歌山商業高、2年連続アベック出場。
 本年より新宮商業高参加出場、新人大会より田辺工業高連盟傘下に。
 予定された県営新球場竣工ならず。ただ桐蔭高グラウンドを使用、中等学校野球ファン懐かしの球場に回顧しきり。ただ選手権和歌山大会準々決勝市和歌山商高-県和歌山商業高の日没コールドゲームをめぐり一部ファン騒ぐも応援団整然たる行動により不詳事とならなかった。
 海南高、春につづき甲子園へ駒を進める。