昭和50年~昭和59年

昭和50  3月中旬、田辺高(監督・岩本英樹)単独でハワイ遠征(3勝0敗)外国への単独高の遠征は高野連通達でこれが最後となる。
 選抜大会に伊都高初出場。春季近畿地区大会県代表、選手権和歌山代表も伊都高。春から夏の和歌山代表も紀和決勝で奈良代表、天理高を抑えることができず。
 秋季近畿地区大会に新宮高、和歌山工業高が出場、ともに準決勝に進出。
 悲報、昭和50年12月17日、県高野連会長寺本正氏急逝。
昭和51  選抜大会に昨秋好成績を収めた新宮高、和歌山工業高出場す。
 選手権和歌山大会優勝の箕島高、紀和決勝で昨年末の宿敵、天理高と対決す。守備の乱れが因となり同数の安打を放ちながら甲子園出場ならず。
 新人大会、秋季近畿地区県予選とも掌中にした箕島高、秋季大会で2回戦天理と対戦、春・夏・秋、天理高に苦汁を呑まされた。
 昭和51年度も終わろうとする昭和52年3月13日球界でニックネームをもつ「ペーヤン」こと井上純一氏急死。県高野連関係者悲報にしばし呆然となる。
昭和52  箕島高、選抜大会2度目の優勝す。名古屋電気高、豊見城高、県岐阜商業高、智辯学園高、決勝戦で中村高を破り昭和45年に次いでの快挙。
 春季近畿地区大会出場の田辺高、選手権和歌山大会の覇者となったが、この年地区割最後の年、サヨウナラ紀和大会(紀三井寺球場)。田辺高に有終の美を求めたが智辯学園高に苦敗。大会旗は斑鳩の里に永遠に眠ることとなった。
 神宮大会、高校の部は昭和47年に発足、田辺高出場す。
 春の優勝の副賞として和歌山県チーム(監督・尾藤 公)フィリピン遠征す。(12月末~1月初旬)
昭和53  紀三井寺球場スコアボードに連盟加盟校板が選抜大会前の3月9日、故井上純一氏の寄贈で完成。
 選抜大会、有田川をはさんで吉備高(初)、箕島高出場。昨年の王者、箕島準決勝で福井商業高に連覇の夢断たる。
 選手権和歌山大会前、紀三井寺球場の来賓室を審判控室に改装す。入場式直後、県高野連は矢間勝重(新宮高-串本高)、審判部より北山正夫、木内佐一3氏に長年の功労を犒らい表彰を行ない記念大会の意義を高めた。決勝は春の選抜大会出場2校の対決となり箕島高に凱歌あがる。
 春季近畿大会は吉備高、秋季近畿地区大会に箕島高、田辺商業高出場。
「悲報」昭和53年12月 6日 元高野連役員 深見顕吉氏死去
    昭和54年 1月24日 元高野連役員 森栄次郎氏死去
昭和54  箕島高、春・夏連覇の偉業達成(作新学院高、中京商業高に次ぐ史上3度目)選抜大会には田辺商業高(初)、3年連続出場の箕島高は下関商業高、倉吉北高、準決勝でPL学園高、決勝で浪商高と激突、北野 敏夫の史上初のサイクルヒットを織りまぜ高校選抜史上初の3度目の栄冠に輝く。
 選手権大会は苦難の道のりだった。札幌商業高、星稜高、城西高、横浜商業高を連破、決勝で池田高を破った箕島高野球面目躍如。
 史上初の三冠をめざし宮崎国体へ。運命のいたずらか台風20号によって他5種目とともに打ち切られてしまい三冠はお預けとなる。
 選手権の副賞として9月韓国遠征、選抜の副賞として12月~1月フィリピン遠征(いずれも和歌山県選抜チーム、監督・尾藤 公氏)
 箕島高主将・上野山善久、日本学生野球協会より表彰さる。
 春季近畿は県和歌山商業高が優勝、秋季近畿は新宮高準優勝す。
 智辯学園和歌山高連盟加入し夏選手権、和歌山大会より出場。また吉備高清水分校も9月に高野連傘下に明春より出場することとなる。
「悲報」昭和54年1月5日 元県高野連副会長、堅田弘三氏死去。
昭和55  選抜大会に新宮出場、優勝校、高知商業高と初戦で対戦力出し切れず敗る。
 藤城 亘男・理事長勇退し、新理事長・原  稔氏就任。
 選手権大会は昨年の覇者、箕島高出場。春の優勝校・高知商業高を2回戦で敗り意気軒昂、連覇の夢ふくらませたが準々決勝で横浜高に3-2で涙を呑む。
 近畿地区大会、本県が主管、春は箕島高、熊野高、伊都高出場、秋の大会は県二次で初優勝した御坊商工高は余勢をもって同大会に出場した和歌山工業高分迄頑張る。
「悲報」昭和55年6月28日 元伊都高野球部長 坂中弘幸氏死去
昭和56  3月20日紀三井寺球場の改築、改装なる。
 選抜大会、春雨けむる大会に20年ぶり御坊商工高奮斗ベスト8入りす。
 「野球部長必携」(県高野連編集)県下31校部長に配布。野球憲章から諸様式連盟規約書等。
 選手権、和歌山大会この大会より女子マネージャーベンチ入り画期的。和歌山工業高は14年ぶり市内より甲子園へ駒を進める。中田 淳投手29イニング無失点の快投するも準々決勝で京都商業高に敗る。
 秋季近畿大会出場は本県より3校となる。箕島高、大成高、耐久高出場し、箕島高が桜宮高を破り初優勝しシーズンオフとなる。
 和歌山工業高・中田 淳投手、日本学生野球協会より、今年度優秀選手に選ばれる。県下3人目。
昭和57  僅少差の最大のものは1-0である。春・夏ともこの僅少差に涙をのんだ。春・選抜出場初の大成高は2回戦に中京高・森田選手の一振に。甲子園出場7回目の箕島高は準々決勝でPL学園高に3回二死からの1点に泣く。
 選手権大会19年ぶり出場の南部高は熊谷高に隅一に2回戦出場ならず。
 選手権和歌山大会での特記すべきことは入場式が簡素化して好評を博したことと、反面雨天順延が続き昭和40年以来実施されなかった1日4試合を強行したことだった。しかし、強行手段はあくまでも特例中の特例である。
 春季近畿大会は箕島高が再度PL学園高と対戦、選抜と同じ僅少差で敗る。秋季近畿大会に星林高、新宮高、吉備高ともにベスト8入りしたが準々決勝で枕を並べ討死す。
 近畿地区県大会優勝旗と新人大会優勝旗、朝日・毎日新聞社から新調された。
昭和58  選抜大会15年ぶり星林高出場す。
 審判委員長・塩谷 弥一氏勇退し、後任に小川 伊一氏就任す。藤城 亘男氏は全国高野連監査委員に原 稔 理事長が全国高野連審議委員に就任。
 選手権和歌山大会の開会式を2日早めたが雨天で2日延期(県大会初)応援も黒い学生服がなくなり簡素、健康的。
 選手権大会に箕島高出場3回戦に進出したが高知商高に苦敗。
 春季近畿は伊都高決勝に東洋大姫路高と対戦、長蛇を逸す。新人大会、秋季県大会が決勝とも和歌山市内同志昭和40年以来18年ぶり。本大会は和歌山工業高、桐蔭高、耐久高出場。和歌山工業高ベスト4入りを果たす。
 紀三井寺球場、大改修工事に入り、明春装いも新たに球児におめみえす。
 星林高・森  裕嗣選手、日本学生野球協会より表彰される。
 和歌山県高等学校野球大会史と和歌山県高等学校野球史を併せることが評議員会で決定。その任に芝 輝(県高野連幹事・日高高)があたることになる。
昭和59  3月、県木・姥女樫を県高野連役員と箕島高主将によって白球の森に植樹
 第56回選抜大会、和歌山工高は初戦、都城高に延長で敗る。
 5月紀三井寺球場の大改修工事完了。スタンドの増設、芝生も張りかえられ、スコア・ボードも全面改修された。春季県二次予選から使用される。
 近畿地区大会は奈良の国体の都合で本年主管。箕島高、和歌山工高、新宮高が出場、新宮高が初優勝す。
 第66回選手権・県大会は和歌山西高初参加32校で開催。開会式直後、トップバッター・三木選手(高野山高)の本塁打でスタート。大会中27本の本塁打は初。テレファンサービス実施15000件を越す利用があり好評。箕島高が圧倒的強さで優勝したが甲子園では取手二高に8回逆転され苦敗。
 新人大会は桐蔭高2年連続優勝。秋季近畿地区大会3校出場改めて智辯和歌山高、御坊商工高の2校出場、智辯和歌山高はベスト4に進出す。
 貴志川高、日高高中津分校が12月高野連に加盟、来春より34校となる。
悲報、4月15日、井口正幹事、8月28日中前達生理事が死去。