昭和60年~昭和63年

昭和60  開校7年目で選抜の栄光を手にした智辯和歌山高は、北海道・駒大岩見沢高に3対2で惜敗。
 貴志川高、日高高・中津分校が出場、34校となったが、新宮高不祥事のために実質33校の選手権・和歌山大会となる。この夏、奇しくも4ブロック(紀北、和海、中紀、紀南地区)代表が準決戦に進出、球趣をもりあげた。和歌山工高が甲子園へ、三重県代表海星に苦敗。
 春季近畿地区大会に出場した箕島高は天理高に、秋季近畿地区大会に出場した海南高は春同様天理高、御坊商工高は智辯学園高と奈良勢に押される。
 新人大会は、橋本高部員11名で初優勝、和歌山工高、滝本博選手、日本学生野球協会より表彰された。
 7月選手権和歌山大会開会式当日、懸案の「和歌山県中等学校・高等学校野球史」刊行す。
 悲報 8月28日 鈴木彰二海南野球部長死去
昭和61  第58回選抜大会に御坊商工高出場(3回目)。宇都宮南高と対戦、最終回不規則バウンドが命とりとなり姿消す。
 春季近畿地区大会、橋本高善戦し準決勝に進出したが比叡山高に2-1で惜敗。
 選手権・和歌山大会を前に、初戦に近隣校との対戦を避け南北対抗でスタートすることに決定、また、昭和46年以来使用したスコア・ブックを刷新した。大会はシード校ベスト8に進出しないという番狂わせのなか、桐蔭高25年ぶりに優勝し甲子園へ駒を進めたが、春・夏とも栃木県勢に2回戦進出果たせず。
 新人大会は智辯和歌山高、秋季近畿地区大会には総勢10名の大成高が、また日高高は31年ぶりに出場。
 日高高・中津分校の成川和宏選手、日本学生野球協会より表彰された。
 悲報 8月7日 野村竜峯先生、元海南野球部長死去、12月27日 竹下正之高野連会長死去。
昭和62  第59回選抜大会に大成高が選ばれた、史上初の少数(10名)の精鋭善戦空しく東海大甲府高に敗る。
 三宅秀彦会長の勇退をうけ谷口治美会長就任。
 春季近畿地区大会に吉備高出場。決勝でPL学園と対戦、長蛇を逸す。
 選手権をひかえ、交換用紙に登録選手17名を明記することになった。県大会3日連続の雨で昭和40年の申し合わせ事項を変更し3日連続4試合を強行す。智辯和歌山高初優勝で本大会へ、東北高の執拗なバント攻勢にあい敗る。
 新人、秋季近畿地区県二次予選とも吉備高、市和歌山商高、両校は近畿大会では実力の半分も出せずに終る。
 悲報 5月14日 塩谷弥一前審判長死去
昭和63  野球規則の改正でマウンドが低くなる。紀三井寺球場外野フェンスにラバーが張られた。第60回選抜野球大会には和歌山の姿なく淋しい春
 原稔理事長勇退し、吉川嘉造理事長に就任、副理事長制を採用、宮本正之市和歌山商高部長就任。春季近畿地区大会に田辺高出場、東洋大姫路高に苦敗す。
 第70回選手権記念和歌山大会を前に高野連は原稔、中尾茂之、小林修3氏に感謝状と記念品を贈る。朝日新聞社から浅田太喜男氏に地方功労者表彰があり、連続出場の桐蔭高(和歌山中)に表彰状と銅板レリーフが贈られた。
 高野山高は5試合無失策で勝ち進み県代表となり堀越高と対戦惜しくも敗る。特筆は甲子園大会を含め6試合(54イニング)無失策の記録を樹立す。なお、同校主将、吉本俊明選手は日本学生野球協会より表彰された。
 新人大会は星林高、秋季近畿地区大会には日高高、南部高出場、日高高ベスト4入り。

 県高野連規約を大幅な修正を行い明年度「諸規定」という名称に改め県高野連関係者に配布することになる。
 悲報 柳進之助参与は7月13日大会を目前に死去